the hakata rock & photo magazine BEATMAKS #15
黒い花びら
- 柴山俊之インタビュー -
From HAKATA with Love & Peace since 1981
 まずジャケットの写真が、鮮烈なイメージを僕らに与えてくれた。白いスクリーンに浮かび上がった柴山俊之の姿は、かつてインドに実在した狼少年、アマラとキマラが初めて人間の目にさらされた時の様子を連想させる。カメラの視線に向かってさらけ出した、彼の素足や、手の位置、そしてレンズの遥か彼方を見据えるかのような視線、それを全てが柴山俊之の存在を象徴し、誇示している。
 危険な目である。こんな目に久しぶりに出会った。それは菊と名乗っていた頃から全然変わっていないのだろう。少なくともサンハウスの時代を知らない僕らの世代が、伝説として聞きかじった当時の姿をイメージしてみても、そう確信出来るのである。その目は何を見つめ、そしてその目に映し出されてきたものは一体何なのか。サンハウスを知らない僕達だからこそ、菊という表現者からSENTIMENTAL FOODの柴山俊之へと流れていった時間を確認しておきたいのだ。再び強烈な信号を送り始めた彼に敬意を表すためにも。そこで、8月にプロモーションでひょっこり博多に帰って来た彼に昔話を色々聞いてみた。

★博多のロックバンドっていうと、サンハウスが最初だって印象があるんですけど。
 いや、サンハウス以前にもロックバンドはおった。ただそれはダンスホールで演るバンドであって、ちゃんと会場を借りてコンサートをしたバンドという意味では最初だったと思う。それから、日本語でロックを演ったのもね。チューリップとかはいたけど。

★その頃(70年代初頭)の事を聞きたいですね。
 うーん。嫌われとったね、俺達。生意気やったし、ファッションなんかでも拒否反応が強かったね。気にせんかったけど。
 初めて小さなホールを借りてコンサートした時に、300円のチケットでやったら、「ロックのくせに金もうけして」みたいな事をラジオで言われたりした。なんでかというと、その頃のロックのコンサートって無料(フリー)の場合が結構多かったからね。時代が時代だから。それから後もずっと嫌われてたよ、放送局からは。売れて来たらそうでもなくなったけど。

★ダンスホールでも演ってたんでしょ。
 いや、その頃はもうやめてた。だってコンサートで演った方が気持ち良かったからね。やりたい様に好きな事やれるから。当然ダンスホールの時より金にはならんかったけどさ。そこで俺達にとっての救いの場所やったのがパワーハウス(今や伝説となったライブハウス)だった。その他に、フォークのコンサートにも出てたよ。向こうは嫌がってたけど、自分達が演れれば良かったんだから。

★なるほど。当時では新しいバンドだったと。
 そう思うね。嫌われとったのも、あの人達の考え方と違う新しい事をやろうとしてた訳だから、当然かもしれないです。

★それから、レコードを作る頃になってもずっと博多にいたんですよね。
 うん。73年頃からレコードの話はあった。でも、博多にとどまったのは、今だったら根拠はあるけど、あの頃はスタジオもなかったしね・・・・・・バカやったと思うよ。「地方色をいかして(笑)」なんて言われたりして、そんな風に、思い込まれた分、また博多を出づらくなった。でも、東京に出ていかなかったのは、「博多を見捨てた」と言われるのが嫌だった訳じゃなくて、要するに怖かったんだ。
 74年位から日比谷野音とか渋谷公会堂に飛び入りで出て、名前なんかみんな知らないハズなのにやたらとウケた。










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<原本発行 1986年10月20日/復刻初版 2004年7月10日>
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